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法龍寺について

代表挨拶

 令和5年も3分の1を経過していよいよ5月となりました。ゴールデンウィークはしっかり楽しめましたでしょうか。8日には出勤・通学となりましたが、「なんかだるいなあ」なんてつぶやいている方もおられたのではないでしょうか。
 新型コロナウイルスについてはインフルエンザと同等の第5類に下げられましたので、いよいよ自己責任で判断する事が求められます。 マスクを外される方もチラホラ見かけられるようにもなりました。収束までには至っていませんので状況に合わせてマスクを着用したいものです。
 連休中は県外ナンバーの車も多く見かけられ、海外からの観光客も増えているようですので、経済活動は回復傾向にあるように感じられます。

23日から25日にかけて東京に出ます。梅花流全国奉詠東京大会に参加します。宗門の行事活動もここ3年間は自粛モードでしたが、十分なる対策を講じて開催されるようになりました。私はこの方針転換を好ましく受け入れています。

 今夏のお盆行事はコロナ禍前と同様に行います。近隣のご寺院様には慎重論を唱えられる方もおられますが、このままではお寺とお檀家さまとの関係が希薄になってしまうのではと危惧するのです。お盆には、おじいちゃんおばあちゃんと里帰りのお孫さんとが仲良く参拝する風景を早く見たいものです。
 
 
 朝課では檀信徒の平穏ならびに国土安穏を祈り、更には万邦和楽、世界の平和をも祈念するのでありますが、ロシアのプーチン大統領はウクライナ侵略を止めるつもりはないようです。とても残念です。
 ご自身が悪鬼羅刹であることにいますぐ気付いていただきたいものです。前線では多くの尊い命が失われております。戦争を今すぐ停止して、しっかり戦場を見て猛省して頂きたい。

ロシア、ウクライナのみならず戦争・紛争は各地で勃発しています。とにかくも犠牲となるのは一般の市民ではありませんか。

 明朝も世界の平和を願いつつお勤めいたします。皆さまもご一緒に祈っていただきたい。


 



宗教法人 法龍寺
代表役員(住職) 仁田 喜潤

法龍寺について

法龍寺の創建と松平家(久松家)

 法龍寺は曹洞宗大本山永平寺の御直末で「久松家四ヶ寺」の禅宗寺院です。
法龍寺の開創は松山藩松平家初代藩主松平定行が掛川城に入城した1607年(慶長12年)ごろまで遡る事ができます。
掛川領内に永興院という寺院があり、定行公はその住職 建庵順佐和尚(法龍寺開山)を城に招いたり、自ら永興院を訪ねたりして深く帰依したと「法龍寺歴代記」にあります。
 さて、1617年(元和3年)に2代将軍徳川秀忠 は定行公に6万石を加え11万石で伊勢桑名藩に移封を命じます。定行公は桑名領内の八幡萱にある陽向院(往古は天平山興聖万寿院と称す、一説には織田信長の兵火にかかり衰微していた)を整備し建庵順佐和尚(法龍寺開山)に与えました。(「法龍寺歴代記」「久波奈名所図会」)
 1618年(元和4年) 定行公の正室島津氏(千鶴姫)が逝去すると陽向院は現在地に移され葬られました。
これにより松平家の菩提寺となります。千鶴姫は長寿院殿月窓貞泉大姉と贈名され、のちに寺号を「長寿院」と改めました。(「久波奈名所図会」)
 1628年(寛永5年)8月28日 建庵順佐和尚が長寿院で遷化し、その法嗣である月舟賢順が長寿院を継承します。賢順は松山2代藩主松平定頼の弟。長寿院殿逝去後、10歳で建庵順佐の許に出家得度します。
 1635年(寛永12年)には3代将軍徳川家光がさらに4万石を加え15万石で伊予松山藩に移封を命じます。
新たな桑名藩主には、定行公の弟である定綱を任じてます。定行公は長寿院を定綱に委ね、松山城に入城しました。
定行公は松山城下の藤原町にある古寺院址に長寿院殿を祀る寺院を建立し寺号を「長寿院」とし、桑名より子息の月舟賢順和尚を招請しました。賢順は師匠の建庵順佐を松山長寿院開山と仰ぎ自らは2世を称します。この時、桑名長寿院の塔頭寺院「見性寺」「長松寺」も松山城下に移しています。
 1668年(寛文8年) 月舟賢順和尚が遷化すると松山3代藩主松平定長の命により、その弟子 蘭室賢策和尚が長寿院3世となります。その際、蘭室賢策和尚は山号と寺号を改める旨を藩主に言上しています。
 1671年(寛文11年)4月25日 藩主松平定長は「法龍寺」の寺号を授け、山号は賢策に委ねられ「佛國山」としました。
これによりここに『佛國山 法龍寺』の寺号が誕生しました。

法龍寺概要

■名称宗教法人法龍寺
■所在地
〒790-0014
愛媛県松山市柳井町3-8-14
■電話番号089-921-3692
■FAX番号089-947-5663
■代表者代表役員 仁田 喜潤

沿革

1593年
(文禄2年)
定行公前室千鶴姫誕生 父は鹿児島城主島津家家臣の島津朝久公
母は鹿児島城主義弘公の娘御屋地 後に島津家久公の養女となる
1605年
(慶長10年)
9月 家康公の命により千鶴姫が定行公に嫁ぐ この時13歳 松山藩主2代藩主定頼公の母
家康公は側室阿茶局と女中十人あまりを遣わし松平家と島津家の婚儀を取り仕切る 
1617年
(元和3年)
松平定行公 父定勝公(家康公の異父弟)とともに桑名城に入城
建庵順佐和尚も随行し 桑名領内・八幡萱の地にあった陽光院を与えられる
1618年
(元和4年)
定行公正室千鶴姫が享年26で入寂  建庵順佐葬儀をつとめる 現在の桑名市北寺町に埋葬する(長寿院廟)「長寿院殿月窓貞泉大姉」と諡号
長寿院殿千鶴姫の遺命により月舟賢順10歳で得度し建庵順佐の弟子となり長寿院殿の菩提を弔う。
1619年
(元和3年)
定行公は長寿院殿千鶴姫亡き後に島津家の養女を後室に娶る 同じく千鶴姫と称す(後の浄連院殿)
浄蓮院殿の父は、島津家の家臣伊集院忠真公、母はお下 家久公の妹(長寿院の母とは異母姉妹)です 千鶴姫の養父である城主島津家久公は伯父に当たります
以前、父・伊集院忠真公は島津家に謀反を起こしたことがあり、母方の伯父家久公に謀殺されています
その後、母(お下)とともに祖父義弘公に身を寄せ、1613年(慶長18年)に幕府の命により、島津家の人質として、母とともに下向しました。
1624年
(寛永元年)
松平定勝公(定行公の父 家康公の異父弟)が逝去。
1628年
(寛永5年)
御開山 建庵順佐遷化 月舟建順が2世として長寿院を継承する。
1635年
(寛永12年)
松平定行公松山城に入城 城下藤原町の古寺跡に新寺院を建立し「長寿院」と号す
長寿院殿千鶴姫を桑名長寿院より月舟賢順を招併
この時塔頭寺院見性時・長松寺も松山城下に移設 。
1645年
(正保2年)
閏5月19日 松平定行公の庶長女が逝去 「芳林寿清大禅定尼」と諡号
現在は開基塔の横に安置されている(小五輪塔)
1658年
(明暦4年)
千鶴姫が江戸屋敷にて逝去 享年59 麻布曹渓寺にて火葬「蓮香院殿湖月貞鑑大姉」と号す
遺骨は法龍寺に移され埋葬、御霊屋が造立される(現在は開基塔のしたに安置されている) 月舟賢順により葬儀が執り行われ『浄蓮院殿湖月貞鑑大姉』と贈られる
藩政時代 これより毎年、松山藩主松平家より長寿院殿・浄蓮院殿のご霊前に御鏡料・もち米1俵、御斉料・納米20俵あまり、御施餓鬼料・25俵が献じられていました
1665年
(寛文5年)
関三刹(曹洞宗を司る関東の三大寺院)は法龍寺(月舟賢順)に諸宗寺院法度を告示する
法龍寺は松山城下に創建された頃は本寺と僧録は定められていなかった
1668年
(寛文8年)
月舟賢順和尚遷化 蘭室賢策が長寿院を継承(3代藩主定長公の命による)。
1668年
(寛文8年)
松平隠岐守定行公逝去 祝谷山常信寺に埋葬される 法号は「眞常院殿前侍従道賢勝山大居士」
1671年
(寛文11年)
蘭室賢策は山号と寺号を改める旨を定長公へ願い出、定長公は「法龍寺」の寺号を授けました。山号は蘭室賢策が「佛國山」と命名しました。これにより、長寿院は「佛國山法龍寺」と改められ、今日に至っています。
1693年
(元禄6年)
2月25日 3世蘭室賢策は永平寺を本寺とし直末となる旨を4代藩主定直公に願い出これを認められる
これにより蘭室賢策は法龍寺後継として万元を御直末になる為永平寺に派遣する
永平寺は万元に嗣法相続を不許可
蘭室賢策は公訴に及び万元に退院を命じる 
1696年
(元禄9年)
4月 蘭室賢策は自ら大本山永平寺に上山 大本山貫主大証無得禅師永平寺36世融峰本祝大和尚は蘭室賢策に嗣法相伝し、大本山永平寺の直末として認可する
後に蘭室賢策は龍穏寺14世太亨義賢に嗣法する
1699年
(元禄12年)
4月 宇和郡龍沢寺(城川町)と山越龍穏寺は僧録所を願い出るため江戸に出府する
宇和島藩、吉田藩、大洲藩、新谷藩の諸寺院は龍沢寺の支配下に、松山藩、今治藩、小松藩、西条藩の諸寺院は龍穏寺の支配下と定められる
江戸にて龍穏寺14世太亨義賢が僧録に任命される
この頃、法龍寺は蘭室賢策の法嗣万元が退院した為僧録所の申請できず

11月 太亨義賢が法龍寺に晋住  これにより僧録所の申請の必要性は生ぜず 
1705年
(宝永2年)
3世蘭室賢策遷化
1711年
(正徳元年) 
4世太亨義賢退董 義賢の法嗣 霊譚賢峰(龍穏16世)が法龍5世として晋住する
1732年
(享保17年) 
5世霊譚賢峰退董 6世霊雄雉賢晋住
この頃より、藩主拝謁の際の席次に降格が目立つようになる
先住霊譚賢峰は「御尊霊甚不本意之儀」と感じ会に出席しないようになる
(この件について、5世霊譚賢峰までは龍穏寺からの転住のため僧録認可・席次等寺格について問題が生じなかったと7世大鏡義円は記している) 
1736年
元文元年
6世霊雄雉賢退董 前住霊譚賢峰が再住する
1741年
寛保元年
6代藩主松平定喬公 毘沙門堂で国家永盛の祈祷を命じ、献供料3人扶持を賜う
霊譚賢峰 坂の下の毘沙門堂で毎日「仁王般若経」を読誦する
この時より毘沙門堂に洒掃として僧侶1名おく
1742年
寛保2年
霊譚賢峰の法嗣 大鏡義円が大津の大練寺より法龍7世として晋住する
1743年
寛保3年 
7世大鏡義円永平寺に瑞世する その際藩主家より御家老中添簡、金五十両、御舟等々を賜わる
1751年
(寛延4年)
(宝暦元年)
7月25日 八代将軍徳川吉宗公の実孫松山藩主松平国定公は吉宗公の位牌を安置するよう法龍寺に命じる なお、天台宗常信寺にも安置される
10月26日 7世大鏡義円は藩主家の御牌所としての寺格を確立するため、「御先霊の御威徳」であるとし僧録認可を願い出るが認可されず
(浄土宗大林寺、日蓮宗法華寺が御牌所である為、触頭となり列席上位になった例を挙げている)
1752年
(宝暦2年)
高祖道元禅師500回大遠忌厳修される 大鏡義円、銀二百貫目を拝借して大本山永平寺に上山する
1754年
(宝暦4年)
7世大鏡義円遷化 暁堂大了が周防国瀬戸田光明寺より法龍8世として晋住する
1756年
(宝暦6年)
8世暁堂大了 永平寺に瑞世する
1775年
(安永4年)
8世暁堂大了が退董する 藩命により単提普伝が法龍9世として晋住する
翌年1776年 9世単提普伝が永平寺に瑞世する 
1782年
(天明2年)
伊予郡出作村の庄屋松崎与五左衛門元政が8世暁堂大了の隠居庵(黄梅山華蔵庵)を造立する
暁堂大了が華蔵庵に隠居する 
1784年
(天明4年)
正月元旦 子の刻 松山城本丸に落雷 天守閣炎上する 藩主定国公が法龍寺に避難する
7月24日 直筆「法龍窟」を下賜 この扁額を掛けるよう命じる
8月4日 山門の鎮守金比羅宮に水引を賜る
1789年
(寛政元年)
藩主松平定国公が長女観了院殿孝姫(天明6年3月19日逝去 大林寺に埋葬)の追善供養の為
自筆の法華経を奉納する
1794年
(寛政6年)
9世単提普伝が華蔵庵の庵主笑宗の件について叱責を受ける
1795年
(寛政7年)
単提普伝 山越龍穏寺の裁可により隠居を命じられ、即日隠居し志津川慈光寺に転住 慈光寺5世となる
5ヵ月後に慈光寺にて遷化する
1798年
(寛政10年)
石天童麟 長州大津郡渋木村訂心寺より法龍10世として晋住し、ただちに永平寺に瑞世する
石天童麟は書でも有名な寛政八僧に列する名僧
1803年
(享和3年)
10世石天童麟 願い出て長門国豊浦郡長府功山寺に転住する
泰雲大梁 近江国志賀谷村万松院より転住 法龍11世となる
1804年
(享和4年)
11世泰雲大梁 大本山永平寺に瑞世する
1808年
(文化5年)
泰雲大梁 10代藩主松平定則公の切望あり 命により分録(僧録)再志願する
10月23日 末寺東栄寺13世光山見明を江戸に派遣する 
1809年
(文化6年)
10月17日 関三刹が分録の許可状(免章)を発布する 『免章(録役御免牘)』
同時に常恒会地として認可するにあたり『掟』を授与する
『免章』には法龍寺が関三刹の直属となり、法龍寺の塔頭二院、末寺4ヶ寺は法龍寺僧録の支配とすることが明記されている

『免章』と『掟』を授けられた光山見明は永平寺に向うが積雪の為断念 近江万松院にて越年す 
1810年
(文化10年)
春に光山見明 大本山永平寺に上山し永平52世広寿妙済禅師独雄宣峰大和尚より『録役御免牘』を授与され(文化6年12月付) 法龍寺は僧録所常恒会地(格地)となり 藩主家御牌所としての寺格が整う
これらに要した諸費用は377両余り その内200両は江戸で拝借したもので 江戸定府目付 皆川武大夫 御留守居役 梯渡氏が都合する
1817年
(文化14年)
11世泰雲大粱により浄蓮院殿湖月貞鑑大姉160回忌に因み祝国開堂大結制を修行される
松山11代藩主定通公は玄米100表、札銀4貫目、薪700束を賜い、さらに領内の托鉢に当たり三奉行の書間を添え、御法度御布施として銀10枚を衆僧にあたえています 
1819年
(文政2年)
11世泰雲大梁 退董 隠居す
1820年
(文政3年)
圓巌実明 上野国宇都宮成高寺より転住し法龍12世となる
1833年
(天保4年)
12世圓巌実明 隠居を願い出 故郷の肥前国に帰郷する
隠居していた泰雲大梁が再住する
1835年
(天保6年)
龍穏31世大応玄道が晋住し法龍13世となる
泰雲大梁が華蔵庵に隠居す 藩主より5人扶持を賜る
1841年
(天保12年)
13世大応玄道 退董 近江国に転住
龍泰20世補準石天が晋住し法龍14世となる

12月11日から12日にかけて、12代藩主勝善公の実父である松平薩摩守島津斉宣公
(大慈院殿舜翁渓山大居士)の初七日の法要が営まれる
1845年
(弘化2年)
14世補準石天 石見国津和野城 永明寺に転住(補準石天はのちに加賀大乗58世に晋住)
堅壤黄中 石見国津和野城 永太院より晋住 法龍15世となる

11世泰雲大梁 華蔵庵で遷化 同庵の墓所に埋葬される
1852年
(嘉永5年)
道元禅師600回大遠忌 堅壤黄中 大本山永平寺に上山する
1854年
(安政元年)
11月5日、7日に大地震発生(安政の大地震)
「安政の大地震」の記録によると、方丈・書院・庫裡・玄関は全壊のため建て替え、本堂・御霊屋・禅堂・衆寮その他塔頭におよぶすべての建物は修理をするよう藩主が命じたとある 
1869年
(明治2年)
15世堅壤黄中 病に臥す 松山藩大目付所が東栄寺に監寺を命じる
堅壤黄中 遷化する
1870年
(明治3年)
東栄17世綴成玄錦 松山藩初代藩知事久松勝成公の命により法龍16世に昇住する
永平寺に瑞世のため 勝成公より国札9貫700文目を拝借、三津浜より出航するが航行中に発病 京都の本山監院出役所に出願のうえ 伏見欣浄寺の風外和尚の室にて伽藍伝法される 
1871年
(明治4年)
廃藩置県 このころより寺勢が衰える
1873年
(明治6年)
16世綴成玄錦 疾病のために退董する
昌福13世証学文明が晋住し 法龍17世となる
1881年
(明治14年)
17世証学文明この頃隠居し 18世断際有機が晋住か
1887年
(明治20年)
 7月31日 18世断際有機 遷化する
10月13日 17世証学文明 遷化する
1888年
(明治20年)
牧雲石羊 法龍19世となる 
1917年
(大正6年)
1月12日 19世牧雲石羊 遷化する
宝林16世静如素海が晋住して法龍20世となる
1943年
(昭和18年)
8月3日 20世静如素海 遷化する
大興18世大機俊鴨が兼務する 
1945年
(昭和20年)
松山大空襲により全山焼失 伽藍・寺宝の全てが灰燼に帰す
1952年
(昭和27年)
大機俊鴨の法嗣 大俊伸美が晋住し法龍21世となる
直ちに復興に取り掛かり、戦災で焼失した本堂・庫裏を再建する
1955年
(昭和30年)
21世大俊伸美 本尊入佛供養・結制法要を営修する
2004年
(平成16年)
1月14日 21世大俊伸美 遷化 同月16・17日 密葬儀を修する
大俊伸美の法嗣 大伸喜潤が先住の法龍寺再興の功績を賞し 大本山永平寺に「再中興」の免讀を申請する

2月28・29日 本葬儀(導師は大本山永平寺監院 南澤道人老師)を厳修 この時 大本山永平寺貫主 宮崎奕保禅師より法龍21世大俊伸美に「再中興」を免讀され これより法龍21世再中興大俊伸美大和尚として供養をうける

4月5日 大伸喜潤が晋住 法龍22世となる

12月20日・21日 大俊伸美大和尚の小祥忌(1周忌)を導師 瑞応寺堂頭楢崎通元老師にて厳修する
2005年
(平成17年)
1月9日~12日 大伸喜潤 檀信徒と共に大本山永平寺に大俊伸美「再中興」免讀の
         報恩拝登する
         21世大俊伸美大和尚小祥忌(1周忌)正當法要を営修する
11月26日・27日 大伸喜潤 結制大法要(西堂 楢崎通元老師)を厳修する

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